2006/03/31

2006.3.30 -1462 「ローン入金?~連絡なし!確認せず!~」
 27日に契約した住宅ローン。今日、人金のはずなんですが、銀行からは何の連絡もありません。女房に至っては、入金日であることすら忘れていました。
 当面使う当てのないお金なので、どうしても今入金してもらわないと困るというわけではありませんが、銀行からの連絡がないのは、少々気になります。確かに、ローンの金額としては、あまりに小額ですが、いくらでも、お金はお金。お金の商売をしている銀行が、お客とお金を大切にしないのは腑に落ちません。
 この銀行、始めから、好きではありません。「貧乏人は麦を食え!」とは、昔の首相の言葉ですが、「貧乏人は、一流銀行の門を叩くな!」という態度が見え見え。の、取引銀行名は、MTUFJです。

2006/03/29

2006.3.29 -1463 「軍議は戦わず~本日、休戦!~」
 今日は、年度末恒例の管理職会議が開催されました。仕事のことは、できるだけ触れたくないのですが、疲れました。午後2時半から、わずか2時間の会議。その後は、定年退職を迎える先輩の歓送会というお決まりのコース。
 会議の内容も、来年度へ向けて各事業所の代表が、所信を表明するとともに、事業目標を掲げるというもの。通り一遍の、他の事業所の抱負を聞いても、参考になるアイデアはないし、「軍議は戦わず」を実感しました。この先が思いやられます。
 ということで、まったく頭が働かないので、本日はおやすみ。書くのを止めることにします。
2006.3.28 -1464 「水道の開栓手続き完了!」
 土曜日にインターネット経由で東京電力に送電開始の手続きをしました。24時間受け付けるサービスで、なかなか簡単・便利でした。もちろん手数料なし。
 今日、鋸南町役場の水道課に電話をして、水道の開栓手続きOK!こちらも、とても簡単でした。ただし、開栓手数料が千円かかるとのこと。これから使ってくれるお客さんから、使用開始時に手数料を取るというのは、理解に苦しみます。受益者負担とでもいうのでしょうか?有料にしないと、いたずらに開栓・閉栓を繰り返す危険性があるとも思えないし...
 東京電力とは、かなり考え方が異なる公営事業に???
 (追伸)今日、愛車(ミセスの原チャリJOGポシェ)が、鴨川にお嫁に行きました。4年間5千キロ、ありがとうございました。

2006/03/27

2006.3.27 -1465 「住宅ローン契約しました」
 今日は、東京で10時から会議だったので、朝8時に銀行の副支店長を呼び、住宅ローンを契約しました。
 申し込みは、12月中にしてあったのですが、本人立会いの下で契約すること。土日は契約書を保管する金庫が開かないので平日。と、いう条件をクリアできる日がなく、結局、ギリギリの今日になってしまいました。
 別に、金が無かったわけではありません。しかし、職場の住宅手当を受給するためには、賃借かローンの支払いが必要でした。保田から通う場合、公用車を使用できるので、通勤手当は出ません。(東京から成東に通うのには、5万円以上の通勤手当が出ました)
 そこで、月3万円以上の返済ができる金額を借りることにしました。しかも、“その日”までに完済できるような期限ということで、4年ローンという変則的な期間を設定しました。利率は、たったの(?)1.1%!それでも、今日突然、0.1%上がるというのです。(12月の時点では1%ということでした)
 しかし、利率はわずかでも、ローン設定の手数料(約4万円)と物件に抵当権を設定するための手数料と4年後に抵当権を解除するのに必要な手数料を加えると、銀行に約15万円以上払うことになります。借りた額は、わずか160万円ですから、約10%の経費。年率2.5%です。
 これって、通常のローン金利くらいかな?で、4年間の住宅手当は、3.2万円x(48ヶ月-1ヶ月)(4月は書類の提出が間に合わず、手当てが出ません)で約150万円だから、まぁ、こんなもんかな?
 金がないっていうわけじゃないといいながら、結構細かいことをしてしまいました。結局、“その日”までは、風流家は完全に自分のものじゃないという縛りと、4年間という期限をどこかに宣言するために借りたんです。でも、何となく、気分が悪いなぁ。他人に金を借りるのは嫌いです!

2006/03/26

2006.3.26 -1466 「この道は?~いつかきた道~」
 午前4時15分起床。4時30分出発。青梅街道を新宿方面へ。歌舞伎町前の横断歩道には、始発電車に乗るために駅へ向かう人で、黒山の人だかり。靖国通りでは、桜が3分咲き。そのうち小雨が降ってきました。
 午前6時頃、千葉を通過。市原に入ると、工場の白煙が目に付きます。思わず、車内の換気を外気導入から、室内循環に変えました。
 今から、28年前の春、君津市にある研修所に行くときも同じ道を通りました。千葉から先はものすごい渋滞で、工場からは異臭が漂い、「なんで、こんなところにきたんだろう?」と思いました。
 「絶対に千葉県人にはならない。ここは、私の住むところではない。」と心に決めました。
 あれから、30年近く経ちました。結局、ずっと千葉で働いてきましたが、最初の10年間は千葉の住民でしたが、本籍は東京。その後の18年を通じて、心は東京人でした。
 そして、同じ道を、一人、千葉(保田)を終の棲家と心に決めて、車を進めました。
 上総湊を過ぎると、懐かしい風景。鴨川に住んでいた時、よく遊びにきた所です。
 午前7時過ぎに保田に到着。しばらく海岸の駐車場に車を停めて、海を見ていました。雨はやみ、雲の間から朝日が射していました。
 いつかきた道(実はよく通った道)ですが、今日は違いました。もちろん、満載した荷物を降ろした後は、東京に戻りましたが、心は居南無 風流家に残してきました。

2006/03/25

2006.3.25 -1467 「墓穴を掘る?~自分だけの引越し~」
 風邪が治りきらないまま、車に風流家に運ぶ荷物を詰めました。積んだというより、まさに詰め込み!オーディオ、パソコン、ソファー、椅子...の隙間には、本やこまごまとした物をギッシリ突っ込みました。後ろも全然見えないし、助手席にも荷物がいっぱいです。
 前回(2月)に運んだときは、女房も一緒でした。今回も、最初は、一緒に行くといってくれましたが、自分ひとりで荷物を積んだのだから、自分で降ろせるはずなので、一人で行くことに決めました。(前回は大きな机と洗濯機があったので、一人では持てませんでした。)
 風流家はしばらくの間、単身赴任用住宅です。
 自分のことは自分でやる。自分の旅立ちのしたくは自分でします。何か、自分の墓穴を自分で掘っているようで。しかし、ここで家族に甘えては、旅立ちとはいえません。自分で選んだこと。これでいいんです。
 自分だけの引越しは、明日です。
2006.3.24 -1468 「新たな世界への旅立ち~それは別れから始まる~」
 長男が卒業後(就職前)に一度上京しました。一昨日来て、今日帰るとのことでした。昨夜は、私の帰宅が遅く、風邪のため体調不良だったこともあって、たいした話もできませんでした。
 これで、しばらく会えないなと思っていたら、私が出かける時に息子が起きてきました。握手して別れましたが、かえって「これが別れ(親離れ、子離れ)だな。」という思いが強くなりました。
 子供たちが乗っている時間列車に、私がいっしょに乗りつづけることはできないのです。私が時間列車から降りた時、私の周りの風景が止まります。きっと、これが死ぬことかも?
 今は、子供の乗る快速列車から普通列車に乗り換えたような気がします。子供との距離はだんだん(どんどん?)離れていきます。次は、ホームに降りるのでしょう。そのとき時間が止まります。でも、今はまだ、ゆっくり進んでいるようです。
 4年間、私の足になってくれた原付バイクから、今日ナンバープレートをはずしました。次の職場までは、居南無 風流家から車で通勤するので、バイクは要りません。
 あれば、何かと便利かな?と思っていましたが、「無くても困らないものは捨てる」と、気持ちを強くして手放すことにしました。しかし、捨てるのは忍びなく、鴨川の友人に引き取ってもらうことにしました。28日には、私の手元を離れます。
 新しい世界へ旅立つ時、別れはつきものですね。

2006/03/24

2006.3.23 -1469 「市原市に転勤が決まりました」
 4月1日付の異動について、今日、内示があり、市原市天羽田にある職場に転勤が決まりました。居南無 風流家から約50km。車で1時間以上の距離です。でも、午前7時に出れば、インタイム(8時半)に到着するので、今(午前5時半出発)よりは、かなり生活環境が改善します。
 朝、東京湾を見ながら仕事に行く。晴れた日は、伊豆大島や富士山が見える。7時前に家を出て、まず、海で一休み。ゴミを拾うというのはどうでしょうか?ラジオ体操よりは、精神的にも肉体的にも健康な感じがします。

2006/03/23

2006.3.22 -1470 「風邪のため体調不良」
 本日の投稿をお休みします。

2006/03/21

2006.3.21 -1471 「鋸南町は一人ぼっち?~南房総市誕生!~」
 昨日のニュースでしたが、平成18年3月20日、南房総市が誕生しました。
 安房郡内では、昨年2月11日、天津小湊町が鴨川市に吸収され、郡内の町村は8つになりました。千葉県内では、平成の大合併と称して、市町村合併が進んでいます。安房郡内でも、安房9市町村合併協議会が設置されましたが、館山市が抜け、安房8町村合併協議会となり、最後は鋸南町が抜け、安房7町村合併協議会(http://www.town.tomiura.chiba.jp/awa7gappei/)を経て、南房総市(http://www.city.minamiboso.chiba.jp/www/toppage/)になりました。
 これで、安房郡内は鴨川市、館山市、南房総市と鋸南町の3市1町になりましたが、市制をしいている3市は安房郡を離れますので、安房郡を冠する町村は鋸南町(http://www.town.kyonan.chiba.jp/)だけとなります。
 なぜ、取り残されたのか?なぜ、小さな町として生き残ることを決めたのか?
 安房郡内には、私の最初の任地だったこともあり、知人が多くいます。いろいろな話を聞きますが、本当のところは、住めばわかる?(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%88%BF%E7%B7%8F%E5%B8%82)
 とはいえ、私にとっては、小さな町もビジネスチャンス。(その理由は、もう少し時間がたってから話しますが)で、今のところは良いことだと思っています。
2006.3.20 -1472 「お金じゃ買えない居場所~高い?安い?~」
 自分の居場所には、お金では買えない価値があると思います。でも、買うにしろ借りるにしろ、手に入れるためには、お金が要ります。
 ちなみに、居南無 風流家は、650万円でした。土地が坪15万円で30坪として450万円。建物が坪40万円で20坪として800万円。築15年で、年5%ずつ減価するとして、75%減価で200万円。土地と建物の合計で650万円。という、自分なりの評価にピッタリ!です。
 しかし、実際の土地は28坪。これだけで、30万円は安くなるはずです。とすると、620万円。交渉次第では600万円になったかも?まぁ、売主の680万円という希望価格と、私の評価額の620万円の中間値である650万円は、納得できる妥当なセンだと思います。
 とはいえ、自分がそこで生きようと決めた居場所は、お金の額(の多少)ではありません。金では計れない価値があるのです。手放す人にはそれなりの理由があったと思います。しかし、私は、ここで暮らすことに決めました。居南無 風流家は、私にとって、終の棲家にふさわしい居場所です。
 現在の仕事を続けている間は、単身赴任用住居として。仕事を辞めたあとは、自分の仕事場として。「75歳まで住めればいいな...」と、思っています。

2006/03/19

2006.3.19 -1473 「居場所を買う~個人売買で手に入れました~」
 インターネットで偶然見つけた物件。買おうと決めてから、相手にメールを送りました。幸い、購入意思のある人からの連絡は私が初めてだったようで、好意的な回答が来ましたのでホッとしました。
 しかし、大きな買い物など今までしたことのない私が、中古物件の土地と建物を、しかも個人取引で買うということには、ものすごいプレッシャーがありました。
 幸い、“不動産個人売買”というキー検索で、「エコライフ」:全国田舎不動産個人売買物件情報と売買契約書の作り方、田舎不動産の非常識など個人取引のための不動産基礎知識(http://www.ecolife.jp/)というサイトがヒットできて、大変助かりました。(実は、娘が宅建主任で不動産関係に勤めているので、教えてもらいました)
 相手に恵まれたから、うまくいったのかもしれませんので、個人売買を薦める気はありませんが、経費的には節約ができました。(付帯経費は、司法書士に払った移転登記費用を含めて10万円以下ですみました。もっとも、まだ、不動産取得税は払っていませんが)
 8月末に、一度物件の前を車で通って、10月に内覧、その後すぐに購入意志を伝え、11月上旬に契約(頭金1割)、12月14日に残金支払いとともに物件引渡し・移転登記と、慌しく(3回現地に行っただけで)保田に居場所を買ってしまいました。
 平成17年(2006)12月14日、居南無 風流家が誕生したのです。
2006.3.18 -1474 「私が保田に居場所を決めた理由(わけ)」
 やはり、富士山が見えること。子供のころは、東京から富士山が見えました。鴨川からも、君津からも富士山が見えるところがありました。そして、東京から通勤するようになっても、早朝冷え込んだり、風が強かったりすると、中央線や総武線から富士山を見ることができました。
 私は、いつも富士山に守られているような気がしています。保田から見える朝の富士山は、朝日に照らされてきっと赤く輝いているに違いありません。そして、夕方は富士山の後ろに太陽が沈んでいくと、富士山のシルエットが浮かび上がってくるはずです。
 さらに、土地も建物も小さいこと。ル・コルビュジェの「最小限住宅」を知ってから、大きい建物や広い庭にはまったく興味がなくなりました。しかも、保田の家には、塀がないのです。つまり、海まで、否、富士山まで庭がつながっているのです。自分の土地でなくても、東京湾と富士山が私の庭になる!
 もう、これで決まりでした。
 そして、仕事を辞めた後に、ここなら何かができる(やりたいことは、たくさんあります。もう決まっている!?)気がしています。

2006/03/18

2006.3.17 -1475 「保田に居場所を決めた理由~家庭から~」
 まず、駅に近いこと。JR保田駅から約300m、徒歩5分足らずのとことにあるのが最大の魅力です。女房は、車酔いがひどく、車に乗りたがりません。自分で運転すれば酔わないのにと思いますが、完全なペーパードライバーです。ここなら、何かの用事があれば、女房一人で来ることができます。
 そして、海に近いこと。保田海岸まで、約100m(直線距離50m足らず)です。対岸の神奈川県(久里浜、横須賀)はもとより、伊豆大島も遠くに浮かんで見え、晴れた日には富士山が正面に見えます。特に、海岸に町営の無料駐車場があることは、家の前に1台分しか駐車スペースがなく、国道に面しているので、路上駐車もできない立地から考えると、大きなセールスポイントです。
 さらに、保田漁協直営の食堂「ばんや」と24時間営業の風呂「ばんやの湯」があってお客さんが来ても、大丈夫。買い物も鴨川時代からの懐かしいスーパー「おどや」が、自転車でいける距離にあり、午後十時近くまで営業しているので安心。もちろん、近くには魚屋さんもあるし、家の前は酒屋さんと寿しやだし。
 ただ、国道127号線に面しているので、騒音が大きく、別荘としての静寂性はないのが欠点。まぁ、日中は私はいないし、遊びにきた人は、ずっと家にいるわけではないと思うので、「昼寝がちょっと...くらいかな?」と軽く考えていました。(これは、今後結構問題になるかも?)
 

2006/03/17

2006.3.16 -1476 「Blogger Problem ~で、投稿できず?~」
 昨夜午前零時ごろ、投稿しようとしたら“Blogger Problem”という画面が出てブログが開けませんでした。残念!毎日「継続は力なり」を信じて、書いていたのに...でも、内心ホッとしていました。
 なにせ、一昨日と昨日は仕事のピーク。家にたどり着くのがやっとでした。“Blogger Problem”は救いの神?それを言い訳に、昨日はお休みさせていただきました。
 17日に書いてますが、一応、昨日の言い訳ということで、連続の日付にしました。(今夜、17日分を書きます)

2006/03/16

2006.3.15 -1477 「速報!~これで決まり!~」
 朝、電車の吊り広告に、目が点!釘付けになりました。「この感じ、この雰囲気なんです!」風流家の外装のイメージは。
 それは、Pen No.172(4/1号)の表紙を飾っている家の写真でした。帰りに午後11時まで開いている書店に滑り込んで、早速買いました。「海外建築家が設計した、自分の家」という特集記事の一つ。バーバラ・ベスター(米国)の作品でした。http://www.hankyu-com.co.jp/pen/
 残念ながら、風流家はサイコロ型なので、デザインは遠く及びませんが、カラーコーディネートは、これで決まり!
 嬉しくて、つい、いつもの続きを書くのを中断してしまいました。

2006/03/14

2006.3.14 -1478 「保田を居場所に決めた理由~仕事から~」
 昨年(平成17年)の夏には、来春はまた異動という感触を強く持ちました。千葉県内に5つの出先を持つわが組織。私の任地は3年間で3回変わっていますが、今年も空きポストが2つできるので、そのうちのどちらかに行くことは確実でした。 場所は、市原市か館山市。それぞれ、富津市と富山町に出張所があります。市原市の任地は、袖ヶ浦市との境です。
 鋸南町保田は、予想される二つの任地の間に位置します。市原までは、車で50km、1時間ちょっと。館山までは車で20km、30分。その途中に出張所があります。行き帰りに出張所に寄るには便利な所です。
 加えて保田は、長狭街道の西の終点で、東の終点の鴨川市は私の最初に任地でした。若い頃は、よく遊びに来たので、土地勘があります。子供が生まれるまでは、保田より少し北の竹岡に小さなヨット(2人乗りのディンギー)を置いて遊んでいました。
 さらに、鴨川市には、私の最初のお客さんであり、恩人である、無二の親友がいます。
 3時間の通勤時間から開放されて、単身赴任する所(居場所)としては、どちらにころんでも良い所です。
2006.3.13 -1479 「カブ・マルタンの海に入る ル・コルビュジェ」
 海に入るル・コルビュジェの写真を見たのは、「ル・コルビュジエの勇気ある住宅 」 安藤 忠雄 (著)トンボの本(新潮社)という本です。
 それまでの私は、海があまり好きではありませんでした。磯の臭いというか、魚の生臭いにおいが嫌いなので、遊びに行くことはあっても、海のそばに長く住みたいとは思いませんでした。しかし、老人となったル・コルビュジェが一人海に入る写真は、私の未来の姿と重なって見えました。
 写真を撮ったその14年後、ル・コルビュジェは、このカブ・マルタンの海で帰らぬ人となったそうです。(入滅!)
 「海も悪くない。」そして、「海もいいかもしれない。」から、「海がいい。」に変わっていく心の過程で、保田の物件に出会いました。「ここが、仕事のある間も、仕事を辞めた後も、私の居場所かもしれない。」と思いました。

2006/03/13

2006.3.12 -1480 「ル・コルビュジエの『小さな家』との出会い」
 2005年6月11日 テレビ東京で放送された「美の巨人たち」に、1923年、ル・コルビュジエが設計した、レマン湖のほとりに建てられた『小さな家』と呼ばれる白い長方形の住居が紹介されていました。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/f_050611.htm
 ル・コルビュジェの建築(絵画も)については、ギャルリータイセイ(大成建設)のHPhttp://www.taisei.co.jp/galerie/archive.htmlに詳しく載っています。
 私が、ネットキャンパーのHPを見る前にこの番組を見ていなければ、保田の物件に目が留まることはなかったと思います。
 ル・コルビュジェの「小さな家」と言う作品は、エアストリームに通じる所(縦長の動線)がありました。そのことが、銀の幌馬車に対する憧れを益々強くさせていきました。一方、コルビュジェに対する興味もどんどん強くなって、図書館でコルビジェに関する本を読み漁っているうちに、ある写真に出会いました。

2006/03/12

2006.3.11 -1481 「エアストリーム~動かない幌馬車でいい?~」
 全長30フィートを超えるエアストリームが中古で200万円位で売っています。http://www.onyx.dti.ne.jp/~develop/air.htm
 進入道路2m50cm幅の道路が前面まであること。もしくは横・裏にクレーン・ユニック車を入れる空き地などがあることが、条件ですが、港からの陸送料金(400円/km)と改造費を入れても300万円で何とかなるかな?空地が200万円で手に入れば、500万円で銀の幌馬車に住むことができます。単身赴任用住居としてこれほど魅力的な居場所はないのでは?と、千葉県内の安い土地を探しました。
 しかし、安ければそれなりの悪条件がつきもの。山の中でだんだん狭くなった道の先だったり、平坦でなかったり。分譲別荘地で、トレーラー設置可という所があり、見に行きましたが、道から一段下がった土地でいくらクレーンやユニックを使っても無理そうでした。それに、分譲別荘地は管理費がとても高く、ランニングコスト(上下水道、電灯等の公共物)のがバカになりません。
 やはり、銀の幌馬車は、キャラバンが似合う?置きっ放しのエアストリームでは絵にならない!
 それでも、キャンピングトレーラーにこだわり、「小さいものなら住宅地でも置けるのでは?と、ネットキャンパーhttp://www.net-camper.com/を見ていたら、個人売買のコーナーに「山村にある土地でキャンプ用地として使用できる土地の別荘地などの個人売買専用の掲示板」http://www.net-camper.com/cgi-bin/tochi/tochi.cgiがありました。
 何気なく、スクロールして見ているうちに、ちょっと気になる投稿がありました。

★千葉県 内房釣りの基地売却希望 名前: ジープ君[2005/07/03,09:27:44] No.144
 千葉県鋸南町保田に釣りの目的で、建てた別荘を売却希望します。平成3年に建築しましたが、キャンピングカーを購入してからはあまり使用しなくなりました。土地は約28坪で2LDK2階建てです。車庫付きで海水浴場まで徒歩1分くらいです。国道に面しているので、生活には便利です。特急のとまる保田駅までは300メートルくらいで、車で5分以内にはフェリー港の金谷や漁協の経営する魚料理で有名な番屋や勝山港などがあります。希望価格は680万くらいを考えていますが、賃貸で月6万くらいでもかまいません。地元の不動産屋さんに賃貸で申し込む予定ですので、短期間だけの賃貸は予定してません。興味のある方がいらしましたら、お早めにおねがいします。

2006/03/11

2006.3.10 -1482 「銀の幌馬車~エアストリーム~」
 銀色に輝くキャンピングトレーラー「エアストリーム」は、アメリカの文化そのものを感じます。最近のエアストリームも機能的ですばらしいスタイルです(International CCD 25' SSは最高ですが、700万円から1000万円します!http://www.airstreamjapan.co.jp/index.html)が、いわゆる“ビンテージもの”は、まさに”銀の幌馬車”というのにふさわしい逸品です。ビンテージエアストリームを語るHPhttp://www.geocities.jp/vintageairstreaming/index.htmlに載っている写真は、「エアストリームブック―銀色の幌馬車 」 (グリーンアロー・グラフィティ、仙波 喜代子 (著), Pamela Zilly (原著), パメラ ジィリー)の表紙を飾っています。
 この本は、とてもきれいなので、是非一度見てください。英語が得意な方は「Airstream The Silver Palace On Wheels」http://www.calldon.com/air.htmをお勧めします。
 今夜は、仕事で遅くなったので、エアストリームの紹介だけで終わります。(継続は力なりを信じて)

2006/03/09

2006.3.9 -1483 「居場所探し~仕事のためにどこに住む?~のつづき」 
 8時半の始業時間に間に合うためには、午前5時半、起床と同時に家を出ます。自宅の最寄駅からの電車は2,3分おきにありますが、勤務先の最寄駅まで行く電車は1時間に1~2本しかありません。しかも単線なので、列車交換のため駅ごと数分間止まるので、3時間もかかり、東京で1本乗り遅れたり、少しでも遅れが出ると1時間の遅刻になってしまいます。
 当然帰りも3時間かかるわけで、帰宅は早くて10時。11時になることもしばしばあります。一番参っているのは女房です。慢性的な睡眠不足の様子を見るのは辛く、その姿は目を覆うばかりです。
 そこで、単身赴任のための居場所探しを始めることにしました。
 まず目をつけたのが「競売物件」でした。きっかけは、新聞広告。毎週、千葉地方裁判所の競売物件情報が週末の夕刊に載ります。詳しい内容は、不動産競売物件情報サイトhttp://bit.sikkou.jp/や不動産総合情報サイトathome Web「競売・公売・国公有財産物件を探す」http://www.athome.co.jp/kankou/ に出ていました。本もいろいろ読みましたが、何事も経験とばかり、千葉地方裁判所で“3点セット”なるものの閲覧とコピーをしたり、法務局に行って当該物件の登記簿謄本を取ったりした後、物件も見に行きました。
 それは、つぶれた居酒屋と事務所が長屋になっている物件でしたが、アスファルト敷きの駐車場も広く、仕事を辞めてから、商売をするには、とても良い物件だと思いました。地元の知人に聞くと、「大丈夫じゃないか?」と言ってくれました。でも、小さな事務所には、なんだか怪しい警備会社が入っていて、先住者として居座られたらまずいかな?という不安もありました。
 「安く手に入ったら、少し金を払っても出て行ってもらえばいい。」と安易に考えて、実際に入札もしてみました。結果は、残念とは言えないほどの開きで落札できませんでした。今思えば、素人には玄人を追い出すことは難しかったはずです。いやな思いをしなくてすんだことと、少なくとも、法務局という役所の敷居は低くなったことは、結果的には良い勉強になったと思います。
 しかし、手に入らなかったとなると、とたんに「手に入れたくなる」のが人情。でも、競売以外で、私の甲斐性で手に入れられる物件などありませんでした。そんな時、以前憧れていた(三富村に住みたいと思っていた時に考えていた)トレーラーハウスを思い出し、インターネットで関連情報を見ていて、すばらしいものに出会いました。
 「銀の幌馬車」と言われる“エアストリーム”です。        
2006.3.8 -1484 「居場所探し~仕事のためにどこに住む?~」
 そうこうしているうちに、平成17年(2005)4月に、また転勤!自宅(東京から)100km、通勤時間はついに片道3時間になりました。
 今までの通勤時間の推移は、こんな感じで長くなっていきました。
  通勤時間 0分 職場の2階に住み込み    1年
         5分 農家の離れ           5年
        10分 県営住宅            4年
    1時間40分 東京(実家)~千葉駅近く  15年
    2時間10分 東京(実家)~千葉市内   2年
    2時間30分 東京(実家)~酒々井     1年          

2006/03/07

2006.3.7 -1485 「居場所探し~伊豆大島は東京です~」
 今の仕事を辞めても、仕事をしなければ食べていけません。実は、蟄居生活をしていた時に、職を探したことがありました。三重県の津市で全国で初めて「民間からの小学校の校長募集」があるという新聞記事を見て早速チャレンジしましたが、見事に書類選考で落ちました。結局、今の職場にいさせてもらうことになりましたが、そのかわり職場は東京からどんどん離れていきました。
 この年で、仕事を見つけるのは大変です。まして、私の仕事は特殊(乳牛が相手)なので、結局千葉を離れられない?それに東京には家族がいます。ということで、地図を眺めていたら、伊豆大島が目に止まりました。伊豆大島は、東京都で、千葉に行って仕事をするのもそれほど困難ではありません。いや、大島なら私の仕事もあるかも?ガイドブックを見たら“大島牛乳”というのが、お土産として紹介されていて、町営牧場の写真が載っていました。
 そこで、ようこそ伊豆大島へhttp://www.izu-oshima.or.jp/を見たり、大島町の公式HPhttp://www.town.oshima.tokyo.jp/や東海汽船のHPhttp://www.tokaikisen.co.jp/を見ましたが、とにかく行ってみようと一昨年の夏の終わりに一人で行ってきました。
 レンタバイクを借りようと思いましたが、着いたら雨模様ということで、しかたなくレンタカーで島を一周しました。約60km、「バイクでのんびり走ったら気持ちがいいだろうなぁ。」と、思いながら空港の端にある牧場に行ってみました。
 残念ながら、町営の牧場は、民間に払い下げとなり、規模も私のビジネスチャンスがあるとは思えない程度でした。さらに不動産物件も街中にしかなく、それも結構な値段です。(
大島不動産http://www.island-net.jp/~fudousan/が格安な物件を紹介したので、メールで照会しましたが、HPの最終更新が2004.7.9ということもあり、物件1はすでに売れていました。)当然といえばそれまでですが、島だから物価も高い。そして、大島では残念ながら米を作っていないそうで。(昔は陸稲を作っていたそうですが、やはり地元の米が食べられる=いざというとき自給できる所でないと...)どうやら、伊豆大島は私の居場所としては、少しハードルが高かったようです。
 それでも帰るときには、見事に晴れて、船の後方デッキから島を見ると、島全体が”私の墓”のように思えました。ここにいれば(ここで死ねば)、東京からいつも私の墓が見えるというシチュエーションは、かなり魅力的でしたが、逆にここから東京や千葉を見るとちょっと寂しいかな?見えるけど海があってなかなか行けない...かつて島流しにあった人の気持ちが少しわかるようで、寂しがり屋の私には「伊豆大島に住む」という結論は出せませんでした。
2006.3.6 -1486 「居場所探し~仕事をやめたらどこに住む?~」
 私の職場は、千葉県内です。現在は、東京に住んでいます。今まで、3回仕事を辞めようと本気で考えました。
 一度は、父親の看病に疲れた母親の面倒を見るために、東京に戻らなければならなかった(長男なので親の面倒をみるのは当然と周囲から言われました)ので、辞めざるを得ないと言う結論に達しました。しかし、上司(組織)の配慮で、東京から通勤可能な職場に転勤することで、辞めなかった代わりに東京暮らしになりました。(都会が嫌で、北海道に行き、千葉の田舎で暮らしていたのに...)
 それから、今までずっと東京暮らしです。東京に戻った時に生まれた末娘が、今年高校を卒業するので、あれから18年経ったことになります。その間、私もそれなりのポストを勤め、いよいよこれからという時に、事件が起こって、関係者の首を切りました。「私も、辞める。」といいながら、後始末に追われ、一時は窓際の蟄居生活も経験し、それでも家族との生活を守るため、今まで勤めてきました。
 しかし、「できるだけ早く辞めたい。」と言う気持ちが、いつも心の中にありました。そんな、私の気持ちを組織が察したか、自分がそうさせたのかわかりませんが、だんだん、自分の居場所がなくなってきているのを感じていました。
 「辞めたら、千葉とは縁を切りたい。」最初は、日本一晴天率の高い山梨県の茅ヶ岳の麓や笛吹川上流の三富村(現在は合併して山梨市の一部)あたりに住みたいと思い、何度も足を運びました。女房が山が好きなので、二人でひっそり住むには良いと思っていました。でも、母親の面倒はみなければならないし、子供はまだ東京の学校に通っているし、踏ん切りがつかないままに、「やはり、東京は捨てられないのかな?」と思うようになりました。
 「そんな時、ふと、伊豆大島って東京じゃない?」と思いました。

2006/03/05

2006.3.5 -1487 「u76 のもう一つの意味は、under seventy six です」
 私は現在50歳です。実は、子供の頃に「心臓が変形している」と言われ、長生きはできないだろうなと思っていました。だから、結婚もできないだろうし、まして子供なんかつくっても育てられないだろう...で、結婚して、子供も3人つくっちゃいました。
 まぁ、ここまで生きてこれただけでも、“儲けもん”なんです。もうけもんの“余生”をどうやって過ごすか?それもいつまで?
 いつまで生きるかは誰にもわかりませんが、いつまで生きていたいかを考えることはできます。そこで、人生75歳までと勝手に決めたのです。50歳で人生の2/3。残り1/3の25年間について、自分で考えて自分で生きてみようと決めました。“75歳まで”が“76歳以下”を意味する u76 と一致しないのですが(正確には76歳未満というべきなんでしょうね)、そこは数学が苦手な私のご愛嬌。有南無と人生75歳をかけて u76 と名乗っています。
 最近読んだ「生死半半」(淀川長治、幻冬社、1995)には、あとがきに「私は、生の延長線上に死があるとはどうも思えません。人間の中には生きることと死ぬことの両方が半分ずつあるように思えるのです。」と記されていました。私も同感です。「人は死にながら生きている」と思います。となると、これから75歳までに徐々に死んでいる部分が多くなって最後は生きられなくなる?
 できれば、75歳までは死んでいく部分ができるだけ少ないように生きたいですね。その後は大往生。本当の余生で、死を受け入れながら生きたいと思います。
 ということで、75歳までの生き方を考えることになるわけですが、その前に、「生きる場所;居場所」としての「居南無 風流家」について、今までの経緯を記してみます。

2006/03/04

2006.3.4 -1488 「有南無は u76 の本名?いいえ、本名はヒロシです」
 u76 は、“ゆーななじゅうろく”とか“ユーナナロク”と読むのではなく“うなむ”と読みます。うなむに漢字を当てると「有南無」になります。
 “うなむ”は、私の本名「ヒロシ」のことです。「ヒロシ」は、おそらく今でも日本で一番多い男の名前だと思います。試しに“ひろし”で変換してみると...博、弘、宏、浩、洋、裕、寛、博史、浩志、広志、浩史、比呂志、...72の候補があります。そこで、「“ウ”冠(かんむり)にカタカナの“ナ”を書いて“ム”を書く“ヒロシ”です。」と説明していました。そう、私の本名は“宏”です。“ウ”を書いて“ナ”を書いて“ム”を書くと説明するくらいなら、いっそそのまま“ウナム”にしてしまえ!ということで、「有南無」と名乗ることにしました。さも“ありなむ(有南無)”というわけです。さらに、有南無(うなむ)をメールアカウント(半角英数小文字)に翻訳すると、「u76 」 になるわけです。
 くどくどと4日間も続けましたが、これでやっとブログ紹介の欄に書いた言葉の意味の説明を終わります。
 でも、実は、u76 には、もう一つの意味があります。
2006.3.3 -1489 「“居南無”は“きょなん”と読みます」
 風流家は、私の理想の居場所です。夢の居場所なので、具体的に表現できません。しかし、手に入れてしまったのです。場所が千葉県安房郡鋸南町保田ということもあり、「居南無 風流家」と命名しました。“居南無”は“きょなむ”とふりがなをつけましたが、実際には“きょなん”と読みます。
 “南無”は「南無妙法蓮華経」とか「南無八幡大菩薩」など、“偉大な”とか“崇高な”と言った意味で使われる接頭語です。すぐ隣の南房総市(旧安房郡富浦町)には南無谷(なむや)という地名もあります。しかし、 “南無”は、鋸南町と関係ができるとは思ってもみなかった頃(5年以上前)から使っていました。
 実際は“有南無”と言う形で使っていました。“有南無”は、私、u76 の本名(?)です。ですから、鋸南の当て字としての“居南無”というだけでなく、「“有南無”の居場所」と言う意味を込めて名付けました。

2006/03/03

2006.3.2 -1490 「風流家は“フルハウス”と読みます」
 風流家は“ふうりゅうや”ではなく、“フルハウス”と読みます。風流は風の流れ、空気の存在です。嘗ては“ふる”と読まれたこともあったらしいのです。家を“ハウス”と読むのは当て字ですが。
 見えないものの存在感とトランプのフルハウス(小さい手が集まると大きな手になる)をかけて、自分の理想の居場所を「風流家」と名付けました。
 そして、「風流家」がついに手に入りました。平成17年12月14日(2005.12.14)のことでした。

2006/03/01

2006.3.1 -1491 「カウントダウンを始めます」
 今日からカウントダウンを始めます。“その日”は、平成22年(2006)4月1日なのですが、その日を「新たな人生の出発点」の第一日目としたいので、3月31日を“0”日として計算しました。
 これでいいのかなぁ?
 そして、“その日”が来たら、また新たなカウントダウンを始めるつもりです。その時は、この数字が“旧暦(じゃなくて、O.C.;old count)”になって、新しい数字(実はもう計算できるのです!)が“新暦(じゃなくて、N.C.;new count”になる予定です。
 ところで、西暦では紀元前1年の次は紀元後0(元)年なのかな?昭和64年は平成元年で次の年は平成2年だったような気がします。やはり、4月1日をO.C.1で...にします。